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2008年6月

高岡市本丸会館を考えるための基本資料

高岡市本丸会館を考えるための基本資料

本丸会館とまちづくりの会

2008年5月11日発行を掲載致しました。 

ぜひ、ご覧ください。

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高岡の近代産業史をたどる

高岡電燈株式会社新社屋(現本丸会館)ができるまで
                     

菅野 克志(高岡ガス株式会社代表取締役社長)

藩政時代に商工都市として発展した高岡
・慶長14年(1609年)加賀藩2代藩主・前田利長が関野と呼ばれる台地に高岡城を築いた。6年後に高岡城は廃城となったが、城下町は商工業の町として再興される。水陸交通の拠点として、布や綿、米などの流通を担う問屋業が発達し、千保川左岸には鋳物師の町が隆盛し、地方都市としては他に類を見ない商工都市となる。その繁栄を支えてきた商工業者は、明治維新後は近代産業の担い手として活躍することになる。

県内初の近代的紡績工場と電燈会社の誕生
・高岡は加賀藩より綿の専売権を与えられていたため、繊維産業との関わりが深かった。明治26年(1893年)4月、地元資本によって千保川右岸の横田村に高岡紡績株式会社が設立された。資本金30万円(現在の60億円)で、当時の県内では桁外れの大企業であった。畑地の中にイギリス人技師が設計した煉瓦造りの建物(一部は現存)が出現し、明治28年5月、1万錘の綿紡機を備えた県内初の近代的な大工場が操業を開始したのである。
・高岡紡績は工場のボイラー設備を利用した火力発電も行い、260灯の電燈を点灯していた。北陸地方で、実用的電燈として使用したのは高岡紡績が初めてであった。明治33年5月逓信大臣より電灯事業の兼営が許可され、社名を高岡紡績電燈会社と改めた。同年、工場から市中心部の小馬出町までの架線を終えたところ、試験点灯を目前にした6月27日、高岡市内に火事が発生した。36町、3589戸を焼失する未曾有の大火で、紡績工場は類焼を免れたが、できたばかりの配電設備は全焼し、電燈事業計画は頓挫した。

高岡大火から復興し、近代化の根幹となった電力事業
・大火からの復興が進んだ頃、関西の実業界から高岡の電燈事業に食指を動かすものが現れた。電燈事業の営業権を他県人に渡すことは避けたいと、市内の若手実業家が立ち上がり、明治36年(1903年)7月、高岡電燈株式会社が設立された。その後、明治44年頃に高岡電燈は、従来高岡紡績の社屋の一部を借り受けて開設していた本社事務所を、片原町壱番地(現北陸銀行高岡支店横)に移転した。
・明治・大正・昭和初期にかけては全国的な産業勃興期であり、電力事業はその根幹をなすものであった。高岡電燈も地元の旺盛な電力需要に支えられて業容を拡大する一方、戦中・戦後の混乱や、電気料金の引き下げ要求、業界内の再編(合併・吸収)等、数々の荒波に揉まれていった。
・昭和9年、片原町の本社々屋が手狭になってきたことや都市計画路線工事のため、新社屋を高岡市湶町101番地に建設(現本丸会館)し、ここに陣容を一新したのである。

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本丸会館の価値と展望

価値を知り、視野を広げて議論しよう   

松政 貞治(富山大学芸術文化学部教授)

本丸会館本館の系譜
1

【写真1・1階営業室、写真2・2階大会議室】

起工年代:昭和8年(1933)8月31日
竣工年代:昭和9年(1934)7月8日

施工会社:合資会社清水組京都支店(現清水建設株式会社)
設計  :同設計部(矢田茂など)
建築構造:RC造三階建一部屋階付
外装仕上:腰部花崗岩積、壁面ストーンブロック積 
建築用途:

昭和9年7月8日高岡電燈株式会社本館
昭和16年8月1日、配電統制下における事業者の統合、

北陸合同電気株式会社設立
昭和17年4月1日、北陸配電株式会社と社名変更される
昭和26年5月1日、北陸電力株式会社高岡営業所となる

昭和35年12月 、高岡市との財産交換契約により高岡市庁舎となる
昭和55年6月、高岡市本丸会館

矢田茂(1896~1958)は、東京帝国大学建築学科の同期生6名により、大正9年に日本初の建築デザイン運動グループである「分離派建築会」を結成。メンバーには堀口捨巳、山田守、森田慶一らがいる。過去の建築様式から分離した新たな建築を志向し作品を発表。矢田は卒業後清水組に入社。

歴史的文化的意味
*富山の近代化の象徴である電力の産業性を、近代建築デザインとして表現
→本丸会館の歴史そのものが富山の近代化の象徴
*1960年から1980年までの20年間、市庁舎として活用
→集団的記憶、ゲニウス・ロキ=地霊=土地魂(とちだま)=場所性、を有する、近代高岡の存在の証しであり、高岡市の「魂」である。

歴史的景観的意味
*万葉線に沿って建築壁面線をそろえ左右対称ながら両端部の高さや壁面
 位置を変える。 →町並みの規範的モデル【写真3・正面】
*高岡城の本丸に軸線を合わせている→文字通り、古城公園への正面性。
→軸線や高さを含め古城公園と一体になったゲニウス・ロキ=地霊=土地魂
=場所性を形成すべき。【写真4・本丸会館鳥瞰】   

建築的価値
*鉄筋コンクリート造でありながらゴシック的縦窓を連続させ、左右対称の両端部を少し低くして前に迫り出させ、全面の街路を通過する際に、見事なリズム感と、めりはりのある分節的効果を生み出すことを計算した卓越したデザインであり、町並みの規範となる横の連続性と縦窓や壁の出っ張りの垂直性が巧みに構成されている【写真5・北西側】。大正時代以後の現代のものを含めて高岡市内で最も優れた建築である。
*ドイツ表現主義(ブルーノ・タウト等【写真6】)やアムステルダム派の影響を受けた日本分離派に共通する日本における鉄筋コンクリート造の黎明期の無垢な純粋さ【写真7・大阪ガスビル】と、フランスの鉄筋コンクリート建築の巨匠オーギュスト・ペレの新古典主義的な気品と縦窓嗜好【写真8】からの影響を想起させる。
*矢田茂の分離派の後輩である山口文象の設計による黒部川第二発電所【写真9】は、ドイツのグロピウス流の典型的な近代建築であり、鉄筋コンクリートの装飾性を廃した整然とした比例を有するのに対して、本丸会館はペレと近代建築の巨匠ル・コルビュジエの中間的な位置づけが可能であり、装飾性からの脱却と、伝統の抽象化という両義性を持つ。山口の黒部川第二発電所が国の重要文化財に候補にされるほど価値があるのと同様に、この本丸会館は相当の建築的評価が為されてしかるべきであり、国の登録有形文化財や県の近代化遺産のリストに名前が挙がっていないことが不思議なほどである。
*外部は、塗装など不適切な補習部分はあるが概ねオリジナルの状態が保全。防水は急務。アルミサッシュの適正化が必要。石張り・塗装の適正化が必要。
*内部は、間仕切り壁など、不適切な変更が加えられている【写真10】。一旦オリジナルの状態に戻すことが必須であるがそれは容易。トイレの再編や設備・配管関係の整理が必要。
*北東側の新館、南東側の保健センターは高さ・デザインとも堪え難い建物。これらの2棟は景観上は著しく障害となっているだけでなく、強度の点でも必ずしも本館に勝っているとは思われない。【写真11】

本丸会館の将来構想例
*外部・内部ともにまずオリジナルに戻し、風格、品位を取り戻すこと。
*高さ、デザインともに問題のある付属2棟を低層化して適切なデザインで建て替える。駐車場は地下またはピロティに収める。本館の再生だけでなく、敷地全体の段階的整備と総合的な利用を考える。
*会議やパーティーの魅力的な会場として現役で活躍する同時代の建築(大阪倶楽部【写真12】や大阪綿業会館【写真13】)、市庁舎の記憶を美術館などとして再生させた建築(倉敷市美術館【写真14】)などの事例を参考に、じっくりと用途を議論し実践すること自体に真の共同体意識が生まれる。
*高岡城本丸の軸線上にある古城公園正面玄関にふさわしい中身にする。万葉線からの高齢者を中心にしたアクセスと古城公園への象徴的なアプローチを演出すべき。市民NPOセンター、景観まちづくりセンター、高岡城・高岡市歴史資料館、地場産業・食材センター、迎賓館的パーティー会場などとして利用可能。

市の魂としての市庁舎建築の例
イタリア・パドヴァ Padova のパラッツォ・デッラ・ラジォーネ(1218-19)と周辺街区;1306 年に上層が増築された。1756 年に竜巻により大破したが、復元に近い「修復」が為された。平面は1425 年頃から現代まで基本的に変わっていない。現在は役所などの公共的な機能を持つ一方で店舗などの様々な生活機能を受容している【写真15】。

財政問題とは別の次元で
財政難の中で行政がこの本丸会館のために必要な維持費や管理費などをたっぷり使ったとしても、高岡市にとってのこの建築の歴史的文化的資源の重要性から見て、私たち市民は十二分に納得できることを知ってもらい、自信を持って保全・活用に専念してもらうようにお願いし、また共にこの名建築の将来像を議論することが必要。議論無しに解体することは歴史意識を欠いた暴挙であり将来のまちづくりの歴史において大きな禍根を残すことになるのは間違いない。

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文化遺産を活かす

高岡らしさを活かす歴史的ストック
                  

大井 俊樹(RACDA高岡)

1・本丸会館の価値

◎近代産業遺産としての価値
・北陸ではじめて電燈が灯された高岡近代化を象徴する建物である。
 市役所としても活用された、高岡のまちのシンボルである。
・設計は、日本初の建築デザイン運動に参加した矢田茂が担当し、建築学的な価値も高 く、観光資源として活用できる。
・近代化産業遺産は、学校教育の教材に活用する動きもあり、
 社会教育の場としても注目されつつある。

2・高岡らしさを活かす=文化遺産を引き継ぐこと

◎高岡らしさとは歴史である
・高岡らしさを活かすことは、歴史を知ることからはじまる。
 本丸会館、古城公園、万葉線などは、高岡にしかない風景。
 高岡町民の歴史と文化を形にした文化遺産でもある。
・藩政時代から蓄積された400年間の歴史のなかで、
 高岡近代化の記憶が抜けると、高岡らしさが失われる。
・我々には、次世代の子どもたちに、文化遺産を引き継ぐ役目がある。

3・古い建物の活用について、知恵の結集を

◎古い建物活用について
・明治から昭和初期にかけて建造された古い建物が、
 全国各地で利活用されている先進地に学ぼう。
・古い建物はまちづくりのシンボルとしても愛されている。
 シンボルの無いまちは、幸せな町だろうか?
・国も支援制度を用意して、市民の知恵の結集を期待している。

Photo_3

参考例:尾道商工会議所

4・本丸会館について、考えることは無意味ではない            

◎まちづくりに参画して、市民が提案すること⇒まちを変えること
・本丸会館について考えることは、まちづくりに参画することである。
 まちについて考えることは、まちを変えていくきっかけである。
・住みよいまちの実現は、要望していても実現は難しい。
 自らも行動して全員参加で、市民提案をつくろう。
・本丸会館の保存、活用を手はじめに、自分たちで「まち」を変えていこう。

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美しい景観を守り育てる

古城公園・池之端通りの景観をリードする存在
                   

巴陵 嘉子(高岡市町並み保存・都市景観審議会委員)

歴史、伝統と近代性が調和した個性的で風格ある「美しい景観のまち」づくりをめざして、平成10年「高岡市町並み保存・都市景観形成に関する条例」が制定された。
私の住む池之端通りは、「都市景観形成地区」に指定されており、屋根は、黒色瓦葺き・切り妻平入り、二階建てが連続するようになど基準を定め、水濠に調和した落ち着いた町並みを守り育てていくことになっている。これは高岡市民が最も高岡らしいと誇る古城公園を大切に守っていく、そのために周辺地区も一体として古城公園に相応しくということである。 

Photo_2本丸会館は、近代高岡町衆の城
 古城公園周辺ということでは、本丸会館は、景観という点で、また歴史的な意味で、とても貴重な存在である。本丸会館二階の窓から見ればそれがよくわかる。
真正面に本丸広場があり、本丸会館(高岡電燈本社)が高岡城本丸に相対するように意識して建てられたの が容易に推察できる。この本丸会館は、昭和のはじめ、高岡が最も元気だった時に、精一杯の気持ちを込めて建てられた「高岡町衆の城」とも言えるのではないだろうか。まさに、歴史的にも貴重な高岡の近代化遺産建造物である。また、著名な設計家、矢田茂によって同じ時に建てられ、富山大空襲の後にも残っていた富山大和店の取り壊しが決まった今、本丸会館は、富山県の貴重な近代化遺産ともなろう。

景観をリードし、訪れる人を和ませる
ただ古いからと壊してはいけない! 壊して駐車場? 何れ瑞龍寺参道八丁道のようにマンションでも建ってしまうのでは? 是非とも本丸会館は、高岡古城公園周辺地区界隈の景観をリードするものとして保存すべきである。
本丸会館のすぐ前が万葉線の駅!万葉線で来て、風格ある一寸お洒落な本丸会館のレストランで一休み、そして公園をゆったり散策する。そんな風に活用できたら、「行きたいまち高岡」になっているのではないだろうか。
   

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